イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市ポンペイは、西暦79年の昼、ヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれた悲劇の街として知られる。
イタリア先住民のオスキ人とヒーコ人によってポンペイの始めとなる集落ができたが、その後紀元前526年からエトルリア人に占領された。(Wikipedia)
ポンペイ市民はイタリア南部に居住していたギリシャ人と同盟を組み、クマエの海戦で支配から脱した。ポンペイとギリシャは交易があるなど文化的な一面があったとされていた。
物的証拠、見つかる
ギリシャ人との交易があったとされるポンペイ遺跡でこの度、その物的証拠が発見された。
ポンペイの街への主要な入り口の1つであるポルタサルノ墓地遺跡(今のところ一般公開はされていない)で噴火で沈む数十年前に埋葬されたと推測される人骨が見つかったと言う。
保存状態の良さが証拠に繋がる
当時のポンペイでは火葬が一般的だったが、この遺体は珍しく墓に埋葬されていた為、非常に保存状態が良かった。性別は男性で「マルクス・ベネリウス・セクンディオ」という名も刻まれていた。
そのため、セクンディオが60歳前後で亡くなった事、古代ポンペイのヴィーナス神殿を管理していた元奴隷であった事、そして奴隷解放後は自身で生計を立てられていた。
セクンディオは当時この身分にしてはそれ相当の社会的地位を獲得していた事が、この墓と遺体によって判明した。
この遺体には碑文が捧げられていたのだが、驚くことにこの碑文にギリシャ語で行われたポンペイの劇場公演について言及されていたのだ。
ギリシャ語がラテン語が並行して使われていた
これは当時の地中海界隈で使われいたギリシャ語がラテン語がポンペイでは並行して使われていた可能性を示す物的証拠と言えるだろう。
ポンペイ考古学公園のガブリエル館長は、「ギリシャ語による劇場公演などのパフォーマンスが行われていた事は、古代ポンペイを特徴づける活発でオープンな文化的風土であった証拠だ」と述べている
大陸続きの国では交易が行われ、結果的に侵略しあう時代でも異言語が共存する文化に発展する事もあったのは大きな発見だろう。